アントニヌス勅令
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
アントニヌス勅令(Constitutio Antoniniana)は、212年にローマ帝国のカラカラ帝によって発布された勅令。これによって帝国内の全自由民にローマ市民権が与えられた。アントニヌスとはカラカラの本名マルクス・アウレリウス・セウェルス・アントニヌスに由来する。
[編集] 概要
この政令の目的は属州民をローマ市民とすることで
などを狙ったものとされる。
しかしながら属州民を無条件にローマ市民としたことで、従来のローマの最重要な財源であった属州税(属州民に対し収入の十分の一を課税)は入って来なくなってしまった。
また「見込んだ人物には自分の遺産を分与する」「長年自分に尽くしてくれた奴隷には、奴隷の身分から解放する事で報いる」というのは、そもそもローマ人だけに存在する習慣であり、遺産相続税(親族に相続される遺産には課税されない)、解放奴隷税というのは、そのような習慣を前提にした課税であった。属州民にはそのような習慣は無く、そもそも奴隷や遺産になるような財産を持つ帝国の富裕層の多くはすでに市民権を獲得していたため、相続税などの増収も微々たるものであった。
むろん、税収が減少した状態で済むわけはなく、その後のローマ帝国は臨時税を濫発する状態となる。アウグストゥス以来の、「広く浅く、分かりやすく公正に」という税制は完全に崩壊してしまった。そして税制という国家の根幹の崩壊は、必然的に多方面への連鎖的悪影響を招く。
従来は属州民が市民権を得るには補助兵(アウクシリア)として軍隊に入るのが一番の近道であった。満期除隊した兵士には退職金と共に世襲のローマ市民権が与えられたからである。しかし、無条件にローマ市民となったことであえて兵役に就くことを望む者は減少した。またカラカラ帝が兵士の待遇改善を行ったことも関係して、長年軍務に就く者が増加し、軍団内における高齢化が促進された。また、ローマの市民精神に立脚していた主力部隊である重装歩兵の精神支柱も破壊され、高齢化と相まって軍団兵の質の低下を招き、国防能力は大幅に低下した。これは3世紀の危機において外敵の侵入を容易く許してしまったことですぐに証明される。
[編集] 評価
市民権の拡大は現代の人権思想からは肯定的に捉えられやすい。しかし、市民権が一種の特権から既得権となったため、それを得ようとする努力から生まれる社会の活力・流動性が失われ、ローマ市民の矜持とでもいうべきものが消失したと見ることもできる。
また、勅令によって(「棚から牡丹餅」的な形で)新たに市民権を得た人々は、己の才覚や努力によって市民権を獲得したアントニヌス勅令以前の新規参入のローマ市民と比較すると、従来の市民から十分な敬意をもって受け入れられることが少なかった。
従来の「ローマ市民権を持たない属州民」と「ローマ市民」の階層格差は、補助兵として一定期間ローマ軍の軍務に就くなどの条件を満たせば属州民にもローマ市民権が与えられたため、属州民と市民の格差は(少なくとも個人レベルでは)永遠に固定された物ではなく、個人の努力と才覚によって克服することが可能な格差であった。
これに対してアントニヌス勅令は、言わば「勅令発布以前に市民権を得ていたローマ市民(の子孫)」と「勅令によって市民権を得たローマ市民(の子孫)」という個人の努力や才覚で克服することが不可能な格差(=固定された社会階層)を産み出す結果となり、双方の間は法的には平等であったが精神・感情面での不平等と差別を招き、結果としては階層に流動性があった時代よりも社会的不平等が拡大したとも言える。
アントニヌス勅令は多くの場合、人権思想と絡み合って高い評価を与えられているが、そもそも上述のように、その目的は税収や軍事の充足にあり、また奴隷などの非自由民は対象にすらなっていないなど、現在のような人権思想とは異なるものである。アントニヌス勅令は、目的であった税収や軍事の充足にとって結果としては逆効果であり、政治的事実だけを見れば当時のローマにとって何一つ良い影響を与えたことは無く、逆にローマの衰退を早めた失政であったと言える。